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15歳

中学時代は、8時前に家を出て自転車で学校に向かい、7限目まで授業を受け、それからまた体操クラブに自転車で向かって20時過ぎまで練習をする、という生活を送っていた。土曜日も午前中と夕方の二度の練習があったし、日曜日もお昼に4時間の練習をしていたので、家にいる時間が極端に少なかったと思う。

なのでその頃は両親が壊れていることをさほど気にしなかった上に、かえりみたりどうにかしようとする気力もなかった。

 

中学3年生にもなると、同級生たちはオシャレやブランド物に興味を持ち出した。

夏休みに髪を染めたり、縮毛矯正をしたり。VUITTONのお財布を持っていたり。

私も例に漏れず、中3の終わりにはハイブランドの革製品なんかを欲しがるようになっていた。

たまたま学校で受けさせられた英検準二級に受かったのと、誕生日祝いと、中学卒業とを併せてでいいからBVLGARIのお財布が欲しいと親にせがんだ。

初めは「いらんやろ」と言うだけの母親だったが、気がついたらわたしの欲しがった型の財布を父親と一緒に買ってきていた。

両親のその対応というか反応というかが、普通なのかそうでないのか、私にはわからない。

中高生にブランド物は早いかそうでもないかも、ねだられたら買ってしまうのが悪いのかそうでもないのかも。

 

謝恩会や卒業式、そういった類のものには何の感慨もなかった。しいて言うなれば、この茶番からようやく解放される、と思っていた。

解放なんてされないのにね。

 

中学からの進路とか

 

中3の夏の試合でボロボロに失敗し、悔しかったけれど自信がなかったからこんな結果でも当然だよな、と思っていて。

その頃にはもう私にオリンピックなんて無理なんだと気がついたというか思い込んでいて。

 

それくらいの頃に、クラブの主力の子たちは学校に行かずに練習しだした。クラブから学校に、特別出席という通常は試合などのときにされる対応をとってくれ、と申し入れ、週に二度程しか学校に通わなくても卒業できるようになっていた。

 

ひとつ下のKは中2で既に全日本のタイトルをとっていて、でも学校には馴染めていなかったので、「ここの高校行くくらいなら練習してたい」と言い出し、Kのひとつ上の私たちの代に開校する通信制高校Dへ進学しようという話が持ち上がった。

初めは主力の2人だけにその高校Dへの進学お誘いがあったが、しばらくすると私ともう1人の2軍メンバーにも声が掛かった。

少しの不安はありつつも、やっぱり声を掛けてもらえたのは嬉しかったし、私もあの学校には飽き飽きしていたので、D高校に進学することをすぐに決めた。このままじゃ自分で自分に言い訳してどんどん頑張らなくなる、とも思っていたし、学校行かずに練習するっていうの、かっこいいんじゃない?とかも考えていた。

もちろん親は反対したが、なんだかんだ私に甘く、駄々をこねていたら最終的には許された。親は「勉強は多少大人になってからもできる、でも体操をできる年齢は今しかない」と自分自身に言い聞かせていた。確かにそう。

 

担任にもよく考えろ、と言われた。成績がトップレベルなのに体操だけにしてしまうのは勿体ない、というような主旨で引き留められたが、もう聞く耳を持たない状態だったので何の意味もなかった。その先生には「あなたは頑固すぎます」とも言われた。正解です。

 

この決断のことは、後にめちゃくちゃ後悔したりもしたが、今ではあれで良かったと思えている。

あの時そのまま内部進学していたら、高校から来た子と馴れ合って頑張れなくなっていた、もしくは中学同様馴染めずに毎日イライラしていたと思う。そしてそれを理由に体操を頑張れないと言い出し、D高校に進学してたら...なんて未練と言い訳ばかりになっていたと思う。だから、諦めたり自分の才能に見切りをつけるために必要な期間だったんだな、と納得している。たぶん。

中学生〜

M市にある都内最底辺の中高一貫女子校に進学したが、やっぱり学校で気の合う友人は出来なかった。

案の定生徒は活字を読むこともしなければ、授業中に座っていることもままならないような子たちばかりだったのだ。

 

そんな学校で、入学前か直後に受けさせられた学力テストのようなもので上位だったというだけの理由でクラスをまとめるルーム長というものに指名されてしまった。

クラスメイトが何か問題を起こす度に謝ったり話し合いをするのは私で、なんでこんなやつらの面倒みなくちゃいけないんだ!といつも思っていた。

テストの成績はいいが授業中に本は読むし寝るし、あまり教師に好かれるタイプではなかったと思う。

 

その頃、忘れ物をした母親が学校まで届けに来ることが稀にあったが、既に母親が少し狂っている、どこか普通ではない、と気づき始めており、だから母親を友達に会わせるのが恥ずかしかった。でも外ではしっかりして優しいお母さんだったので、クラスメイトからは私自身よりも母親が慕われていた。

 

そういう時、何も知らないくせに「母親に優しくしろ」とか「反抗期なんだね」とか、そういう有り体なことばかり言う周囲がほんとうに鬱陶しかった。

外ではうまくやる母親のことも、気持ち悪いと思った。

それは今でもそう思っている。

 

中学校生活はつまらないイジメやハブがあったり、終始そんな頭の悪い感じで進んでいった。

学校はつまらなかったけれど、体操がしたかったし、学校とクラブとがツーツーだったので授業をサボるわけにもいかず、毎日きちんと通学した。

体操も中学生の間は毎日少しずつ上達しているのがわかったし、仲間とも先生とも割とうまくいっていて、簡単に言えば充実していた。

 

中一の夏に試合で函館に行って、同じ班のみんな予選通過してとっっっっても喜んだことは今でもほんとうによく覚えているし、1つ年下の友達Rと一番仲が良くて中学入る前から時間が空く度に街に遊びに行っていたこともとてもいい思い出。

 

函館で見かけた、1つ年下のめちゃくちゃ上手でこの子は絶対に北京出るだろうな、、って思っていた子Kがうちのクラブにその秋に移籍してきた。

と同時にその子を育てたといっても過言ではない中国人の先生Tもきた。

それから私たちの班5人は、Kと一緒にそのT先生にしごかれることになった。

めちゃくちゃに厳しかったしキツかったけど、これについていけば絶対に上手になるんだろうな、とも思った。

でもその先生は贔屓がすごくて、見てもらえる日ともらえない日があったので少し不信感も抱いていた。

結果から言うと、Kは北京とロンドンに出場し、その間に全日本選手権6連覇もした。

 

中二の冬、期末考査中に跳馬の練習をしていて左手首を骨折したことも、その頃よくギックリ腰になっていたことも、頑張ってた証拠かなあと思う。怪我は我を怪しんでるときにするものだとも思うけど。。

 

その手首のせいかそうでないのかは知る由もないが、中三の夏の大きな試合ではボロボロボロボロと失敗をした。

当時クラブにいたロシア人の先生にめちゃくちゃに笑われるくらいには、失敗をした。

 

S区〜

引越し先は都内のS区だった。

私の習い事(器械体操)の都合で引っ越したので、やっぱりその体育館に通いやすい地域がいいかとのことで、自転車で15分、車だと10分程度の距離にマンションを借りた。

M市や他のS区にも候補はあったが、私が散々部屋についてワガママを言ったので、却下になった。

 

転校先の小学校は私の学年がひどく荒れていて、障害のある子を突き飛ばしたり、同時期に転校してきた男子のことを殴ったりと、かなりバイオレンスだった。

女子側も女子側で、4年生ということもありそれなりにグループで固まってきており、エクスクルーシブな雰囲気を感じ取った。

 

その頃の私といえば、考えることの7割が体操のことで、授業が終わったらすぐに体育館に行けるように朝から髪もばっちり結い、服も年中ジャージだった。コンピュータ室で倒立をしたりもしていたので、幾分浮いた存在になっていたと思う。

しかし目立ったところでどう対応すればいいかもわからなかったし、前の学校の方が絶対に良かった、、などと考え、友達いらない!となって殻にこもってしまった。

その結果、4年生から5年生、さらには6年生という女子特有の進化というか群れる特性についていけず、徐々に孤立していった。授業でペアを組む、3人組を作る、となると毎回あぶれていて、仲間に入れてもらえないことが悲しくて悔しくて、よく泣いていた。

 

その頃からもう漠然とではあるが「消えたい、死にたい、いなくなりたい」という思いがあった。家にある頭痛薬などを何錠かまとめて服薬してみたり、少し異常だったかなあ、などと思う。

同時にこの頃には「向かいから歩いてくる人は全員攻撃をしてくる」や「私はやっぱり普通の子と違って、ちょっとおかしいのではないか、障害のある人間なのではないか」などの考えが既に完成していて、それは徐々に刻み込まれていった。

 

それでもなんとか毎日を生きられていたのは、やっぱり単に体操のおかげだったと思う。

小5〜6には既に週7で練習があったし、練習に行けばやることが決まっていて、みんなから遅れないように頑張れば良くて。

その頃一緒に練習していたメンバーは既に選抜されたもので、みんな気が強かったり向上心をたっぷり持っていたりと、少しフツウから外れた子が多かったので、割と和気あいあいと、でも切磋琢磨して、だから日々を生きられていたのだと思う。

 

私の通っていたクラブでは、中学高校の試合でもチームを組んだり、練習の融通をきかせるために、みなが同じ学校に進学するのがしきたりであった。

その学校は毎年定員割れで、スポーツは強いがその他のレベルは都内最底辺と言われてもぐうの音出ないような学校だった。

仮にもスーパーキッズに通い、御三家受験を考えたこともある私は、その学校には行きたくないな、、と思っていた。なのでダメもとではあるが独自に受験勉強をし、近所のMARCH附属女子校を受験した。

塾に通っていない上に勉強の時間もろくにとれていなかったので、当然の様に落ちた。一番の原因は面接だと思うが。

面接では得意のだんまりを発揮してしまい、質問には30%程しか答えられなかったし、その30%も蚊の鳴くような声での受け答えであった。

 

結果的に、体操クラブのみんなと同じ中学に進学することになった。

 

あと、時期はあまりよく覚えていないが、小5〜6のどこかで半年程、父親がプー太郎をしていた。

以前に勤めていた外資系の企業で喧嘩をしたか揉めたかで、辞めてやる!みたいなノリで辞めていた気がする。実質的には左遷だったのかもしれないが。その企業が日本に進出してきてから初めての30代管理職ともくされていたらしいので、圧はすごかったのかなあ、なんて思う。

私が中学に入学する前までには今の勤務先に入っていたと思う。その頃から少しずつ荒んだ感じが抜けてきた、、ような気がしていたが、それは気のせいだった。多分。

 

書き忘れていたが、K市にいた頃の父親は掃除機を投げたり、食器棚を殴ったり、玄関にあった陶器の犬を割ったりと、かなり暴れることが好きだったようだ。

まあ、私が産まれる前、新婚時代に買った家にもグーパンで穴を開けていたらしいので、気性が荒いのは元々のものなのかな、と思う。

 それが普通ではないと知ったのはいつ頃だったかな。19歳くらいだったと思う。

 

H市〜

覚悟を決めたつもりだったが、公な(鍵付きではない)アカウントで文章を、しかも自叙的な文章を書くということにはやはり抵抗があり、あとやっぱり体調悪くなったり、ごちゃごちゃ色々とあって前回の投稿から4ヵ月も経過してしまった。

 

H市に住んでいた頃に通っていた幼稚園は、それなりに人気の園だったようだが、転勤族と地元の成金が混在していたらしく、きっと派閥のようなものも少なからずあったのだろう、と今では思う。

 

この頃はとても楽しかった記憶がある。

極度に少食だった私はとてもとても小さなお弁当箱の昼食さえも完食できずに苦戦していたが、それ以外は良い記憶ばかりある。

うんていをしたり、お友達のお家でパーティをしていたり、バレエやコーラスなどの習い事に通っていたり。

しかし、自分の家にいて、両親と過ごしている記憶が一切ないのである。

 

K市への引越しが決まって、誕生日を目前に仲良しのみんなとお別れすることになり、お別れの意味はよくわからなかったけれど、やっぱり悲しかった。

引越し先の幼稚園にはうまく馴染めず、お庭を行進するのを拒んだり、朝に母親が送ってくれた後イヤイヤをして泣き出すこともしょっちゅうだった。

一度、どうしても嫌で、嫌で嫌でたまらなかったのに、母親に無理矢理手を振りほどかれて幼稚園の先生に押し付けられたのが、すごくすごく悲しかったのは、今でも覚えている。

その園での思い出は、お片付けが上手でいつもロッカーが綺麗、と褒められていたこと。

 

引越しをして習い事も少し変わった。

バレエスタジオが近くになかったので、器械体操を習った。

やっぱり女の子なのでピアノに憧れ、せがんで習わせてもらった。

(勉強をすれば褒められると思ったので)某有名進学塾の小学校低学年向けコース、スーパーキッズに通わせてもらった。

父親の勧めで英会話教室にもいった。

他にも何か習っていた気はするけれど、あまり記憶にはない。

ちなみに器械体操は高校生の終わりまで、ピアノは小2くらいまで、塾は小3の終わりまで、英会話教室は小1か2頃まで。

 

5歳頃に公園で自転車の練習をしていた。

父は当時海外出張が多く、その時も一ヶ月程家を空けていたが中国出張だと聞かされて、母親と2人で公園にいた。

成人してから聞いたが、その一ヶ月の間、父は服役していたらしい。

母親の言う事なので真偽のほどは定かではないが、確かにあの時久しぶりに会う父は、丸刈りだった。

 

幼稚園を卒園し、小学校に入った。

普通の小学生と同じように期待に胸を膨らませ入学したが、数ヶ月すると、学校って思っていたより楽しくないなあ、なんてまるで大学生のような考えを持ち始め、ついには朝になって「学校行きたくない」と言い出す。

親や担任の先生が騒いでイジメなどを疑うので、学校に行きたくないと言うだけでこんなにも大事になるのか、と思いその後は渋々通うことにした。

 

当時私は話すことがとても苦手で、人前で自分の意見を声に出せなかった。

体操を習っていたので休み時間に鉄棒をして注目を浴びたりはしていて、それは気持ちよかったのだが、発言をするということがほんとうにだめだった。

 

それなりに友達もいた気はするが、それはアグレッシブな性格の母によるものだった気もする。

私は一人っ子なので、寂しい思いをさせないようになのか、はたまた人付き合いを覚えさせるためなのか、理由は定かではないが、とにかく母は私に友達を作らせたがった。

小学校入学直後は、その母に気圧されて「友達を作らなくては、、!」と考え、自身の持っていた可愛い消しゴムを配って周囲の気を引こうとしていた記憶がある。

 

健全ではない友達付き合いもあった気がするが、なんだかんだと言っても友達には不自由していなかった。

しかし転校する半年前頃から、大好きだった友達が素っ気なく感じられた。

「一緒に帰ろう」も「今日遊ぼう」も、さらには給食袋を先に取って渡しただけでも嫌な顔をされた。

なんかしたかな、、嫌われちゃったんだ、、、なんて考えていたけれど、習い事も忙しくなり、引っ越すことも決まり始めていたので、モヤモヤは抱えたままだったがそこまで思い煩うことはなかった。

 

引っ越しが決まってから完了するまではほんとうにはやかった。

気がついたら4年生になっていて、気がついたら東京にいた。

 

 

 

 

不幸ぶりたいのかもしれない〜浜松まで〜

私以上に不幸な人なんて巨万といるし、こんなんで不幸ぶってたら各方面から叩かれそうな気もするけど、もしかしたら私、不幸ぶりたいのかもしれない。

わかってほしい、のかな。承認欲求、なのかな。

ということで、目的はよくわからないけれど、ここでは等身大の自分をさらけ出していこうと思う。

 

 

私はS県U市(現在のO市)にて生を受け、保育園に通っている途中でS県H市に引越しをし、幼稚園の年中さんが終わりかけた年末、除夜の鐘を聞きながらK県K市に移り住み、小学校4年生の初めまでをそこで過ごし、その後東京都S区に転居した。

川崎までは転勤族だった親の都合で、S区にきたのは私自身の都合だ。

 

私の一番初めの記憶はいわゆるバースメモリーで、いきなり眩しくなったと思ったらたくさんの目があって、こわくて怯えてフリーズして、というところまで覚えている。

まあそんなもの「あなたが産まれたときはね〜」なんて聞かされて後から作られた記憶かもしれないのであまり信憑性は高くないよな、と思っている。

 

ほんとうに最初の記憶だと思っているのは、おそらくS県にいた頃。

もう空は真っ暗で、そんな中私は母親に抱き抱えられていた。母親はひとりで「もうあかん、あんな人とおったら…私は守るんや…あの人からこの子を守るんや…何があっても…守るんや…」とぶつくさ言っていた。

何があったのか当時の私には理解出来なかったが、のちのち聞いた話によると、父親の浮気だかなんだかが発覚した、らしい。

母親は私と一緒にとりあえず車に乗ろうとしたようだが、追いかけてきた父親に「これは俺の車や!」と怒鳴られ口論になり、というところで私の記憶は止まっている。

 

S県での記憶はその一件しかないようだ。

 

次の記憶はH市に引越して、幼稚園に入る前。近所の公園のお砂場で母親に見守られながら遊んでいる、のどかな風景。

前後してその頃の休日の朝には、父親とおそらく家の近所にあったサークルKへと歩いて向かっている、そんな記憶もある。

私はそこでよく4粒30円くらいの、オレンジとかグレープとかのガムを買ってもらっていた。

 

しかし当時の私にとって父親は脅威だったらしく、幼稚園の入園式では父親に抱き上げられるのを必死に拒もうとしギャン泣きする姿が写真に残っている。

 

思い出そうとしてもH市までの父親に関することは、あまり記憶に残っていないので(もしかすると思い出せないだけかもしれないけれど)、その頃父親はあまり家にいなかったのかもしれない。