不幸ぶりたいのかもしれない〜浜松まで〜

私以上に不幸な人なんて巨万といるし、こんなんで不幸ぶってたら各方面から叩かれそうな気もするけど、もしかしたら私、不幸ぶりたいのかもしれない。

わかってほしい、のかな。承認欲求、なのかな。

ということで、目的はよくわからないけれど、ここでは等身大の自分をさらけ出していこうと思う。

 

 

私はS県U市(現在のO市)にて生を受け、保育園に通っている途中でS県H市に引越しをし、幼稚園の年中さんが終わりかけた年末、除夜の鐘を聞きながらK県K市に移り住み、小学校4年生の初めまでをそこで過ごし、その後東京都S区に転居した。

川崎までは転勤族だった親の都合で、S区にきたのは私自身の都合だ。

 

私の一番初めの記憶はいわゆるバースメモリーで、いきなり眩しくなったと思ったらたくさんの目があって、こわくて怯えてフリーズして、というところまで覚えている。

まあそんなもの「あなたが産まれたときはね〜」なんて聞かされて後から作られた記憶かもしれないのであまり信憑性は高くないよな、と思っている。

 

ほんとうに最初の記憶だと思っているのは、おそらくS県にいた頃。

もう空は真っ暗で、そんな中私は母親に抱き抱えられていた。母親はひとりで「もうあかん、あんな人とおったら…私は守るんや…あの人からこの子を守るんや…何があっても…守るんや…」とぶつくさ言っていた。

何があったのか当時の私には理解出来なかったが、のちのち聞いた話によると、父親の浮気だかなんだかが発覚した、らしい。

母親は私と一緒にとりあえず車に乗ろうとしたようだが、追いかけてきた父親に「これは俺の車や!」と怒鳴られ口論になり、というところで私の記憶は止まっている。

 

S県での記憶はその一件しかないようだ。

 

次の記憶はH市に引越して、幼稚園に入る前。近所の公園のお砂場で母親に見守られながら遊んでいる、のどかな風景。

前後してその頃の休日の朝には、父親とおそらく家の近所にあったサークルKへと歩いて向かっている、そんな記憶もある。

私はそこでよく4粒30円くらいの、オレンジとかグレープとかのガムを買ってもらっていた。

 

しかし当時の私にとって父親は脅威だったらしく、幼稚園の入園式では父親に抱き上げられるのを必死に拒もうとしギャン泣きする姿が写真に残っている。

 

思い出そうとしてもH市までの父親に関することは、あまり記憶に残っていないので(もしかすると思い出せないだけかもしれないけれど)、その頃父親はあまり家にいなかったのかもしれない。