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S区〜

自叙

引越し先は都内のS区だった。

私の習い事(器械体操)の都合で引っ越したので、やっぱりその体育館に通いやすい地域がいいかとのことで、自転車で15分、車だと10分程度の距離にマンションを借りた。

M市や他のS区にも候補はあったが、私が散々部屋についてワガママを言ったので、却下になった。

 

転校先の小学校は私の学年がひどく荒れていて、障害のある子を突き飛ばしたり、同時期に転校してきた男子のことを殴ったりと、かなりバイオレンスだった。

女子側も女子側で、4年生ということもありそれなりにグループで固まってきており、エクスクルーシブな雰囲気を感じ取った。

 

その頃の私といえば、考えることの7割が体操のことで、授業が終わったらすぐに体育館に行けるように朝から髪もばっちり結い、服も年中ジャージだった。コンピュータ室で倒立をしたりもしていたので、幾分浮いた存在になっていたと思う。

しかし目立ったところでどう対応すればいいかもわからなかったし、前の学校の方が絶対に良かった、、などと考え、友達いらない!となって殻にこもってしまった。

その結果、4年生から5年生、さらには6年生という女子特有の進化というか群れる特性についていけず、徐々に孤立していった。授業でペアを組む、3人組を作る、となると毎回あぶれていて、仲間に入れてもらえないことが悲しくて悔しくて、よく泣いていた。

 

その頃からもう漠然とではあるが「消えたい、死にたい、いなくなりたい」という思いがあった。家にある頭痛薬などを何錠かまとめて服薬してみたり、少し異常だったかなあ、などと思う。

同時にこの頃には「向かいから歩いてくる人は全員攻撃をしてくる」や「私はやっぱり普通の子と違って、ちょっとおかしいのではないか、障害のある人間なのではないか」などの考えが既に完成していて、それは徐々に刻み込まれていった。

 

それでもなんとか毎日を生きられていたのは、やっぱり単に体操のおかげだったと思う。

小5〜6には既に週7で練習があったし、練習に行けばやることが決まっていて、みんなから遅れないように頑張れば良くて。

その頃一緒に練習していたメンバーは既に選抜されたもので、みんな気が強かったり向上心をたっぷり持っていたりと、少しフツウから外れた子が多かったので、割と和気あいあいと、でも切磋琢磨して、だから日々を生きられていたのだと思う。

 

私の通っていたクラブでは、中学高校の試合でもチームを組んだり、練習の融通をきかせるために、みなが同じ学校に進学するのがしきたりであった。

その学校は毎年定員割れで、スポーツは強いがその他のレベルは都内最底辺と言われてもぐうの音出ないような学校だった。

仮にもスーパーキッズに通い、御三家受験を考えたこともある私は、その学校には行きたくないな、、と思っていた。なのでダメもとではあるが独自に受験勉強をし、近所のMARCH附属女子校を受験した。

塾に通っていない上に勉強の時間もろくにとれていなかったので、当然の様に落ちた。一番の原因は面接だと思うが。

面接では得意のだんまりを発揮してしまい、質問には30%程しか答えられなかったし、その30%も蚊の鳴くような声での受け答えであった。

 

結果的に、体操クラブのみんなと同じ中学に進学することになった。

 

あと、時期はあまりよく覚えていないが、小5〜6のどこかで半年程、父親がプー太郎をしていた。

以前に勤めていた外資系の企業で喧嘩をしたか揉めたかで、辞めてやる!みたいなノリで辞めていた気がする。実質的には左遷だったのかもしれないが。その企業が日本に進出してきてから初めての30代管理職ともくされていたらしいので、圧はすごかったのかなあ、なんて思う。

私が中学に入学する前までには今の勤務先に入っていたと思う。その頃から少しずつ荒んだ感じが抜けてきた、、ような気がしていたが、それは気のせいだった。多分。

 

書き忘れていたが、K市にいた頃の父親は掃除機を投げたり、食器棚を殴ったり、玄関にあった陶器の犬を割ったりと、かなり暴れることが好きだったようだ。

まあ、私が産まれる前、新婚時代に買った家にもグーパンで穴を開けていたらしいので、気性が荒いのは元々のものなのかな、と思う。

 それが普通ではないと知ったのはいつ頃だったかな。19歳くらいだったと思う。