読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

中学生〜

自叙

M市にある都内最底辺の中高一貫女子校に進学したが、やっぱり学校で気の合う友人は出来なかった。

案の定生徒は活字を読むこともしなければ、授業中に座っていることもままならないような子たちばかりだったのだ。

 

そんな学校で、入学前か直後に受けさせられた学力テストのようなもので上位だったというだけの理由でクラスをまとめるルーム長というものに指名されてしまった。

クラスメイトが何か問題を起こす度に謝ったり話し合いをするのは私で、なんでこんなやつらの面倒みなくちゃいけないんだ!といつも思っていた。

テストの成績はいいが授業中に本は読むし寝るし、あまり教師に好かれるタイプではなかったと思う。

 

その頃、忘れ物をした母親が学校まで届けに来ることが稀にあったが、既に母親が少し狂っている、どこか普通ではない、と気づき始めており、だから母親を友達に会わせるのが恥ずかしかった。でも外ではしっかりして優しいお母さんだったので、クラスメイトからは私自身よりも母親が慕われていた。

 

そういう時、何も知らないくせに「母親に優しくしろ」とか「反抗期なんだね」とか、そういう有り体なことばかり言う周囲がほんとうに鬱陶しかった。

外ではうまくやる母親のことも、気持ち悪いと思った。

それは今でもそう思っている。

 

中学校生活はつまらないイジメやハブがあったり、終始そんな頭の悪い感じで進んでいった。

学校はつまらなかったけれど、体操がしたかったし、学校とクラブとがツーツーだったので授業をサボるわけにもいかず、毎日きちんと通学した。

体操も中学生の間は毎日少しずつ上達しているのがわかったし、仲間とも先生とも割とうまくいっていて、簡単に言えば充実していた。

 

中一の夏に試合で函館に行って、同じ班のみんな予選通過してとっっっっても喜んだことは今でもほんとうによく覚えているし、1つ年下の友達Rと一番仲が良くて中学入る前から時間が空く度に街に遊びに行っていたこともとてもいい思い出。

 

函館で見かけた、1つ年下のめちゃくちゃ上手でこの子は絶対に北京出るだろうな、、って思っていた子Kがうちのクラブにその秋に移籍してきた。

と同時にその子を育てたといっても過言ではない中国人の先生Tもきた。

それから私たちの班5人は、Kと一緒にそのT先生にしごかれることになった。

めちゃくちゃに厳しかったしキツかったけど、これについていけば絶対に上手になるんだろうな、とも思った。

でもその先生は贔屓がすごくて、見てもらえる日ともらえない日があったので少し不信感も抱いていた。

結果から言うと、Kは北京とロンドンに出場し、その間に全日本選手権6連覇もした。

 

中二の冬、期末考査中に跳馬の練習をしていて左手首を骨折したことも、その頃よくギックリ腰になっていたことも、頑張ってた証拠かなあと思う。怪我は我を怪しんでるときにするものだとも思うけど。。

 

その手首のせいかそうでないのかは知る由もないが、中三の夏の大きな試合ではボロボロボロボロと失敗をした。

当時クラブにいたロシア人の先生にめちゃくちゃに笑われるくらいには、失敗をした。