限界
18歳で限界を感じた。
ずっとずっと続けてきて、食事をとるのと同じくらい当たり前にあった体操を辞めた。親より一緒にいた仲間たちと離れた。家より長くいた体育館にも足を運ばなくなった。
もうできないと思ったし、行きたくない学校に進学してまでやる意味がわからなかったし、続けてもいいことなんて一つもないと思っていた。
私が行くつもりだった大学の体操部に私たちの代わりに入った子たちは体操もさほど上手じゃないし勉強も私よりできないし、とてもとてもとてもとても嫌な気持ちになった。
どうして?どうして?どうして?
渋々通うことにした短大も、誰でも入れるような所謂Fランだったので、やっぱりつまらなかった。
その頃小学生の頃に塾が同じだった子に再開した。
ずっと勉強をきちんとやり続け、超有名私立中高に受かった彼は賢かったし話していて楽だったし楽しかった。周りの友人たちとも何人か知り合ったが、概して面白く優しく、やっぱり賢かった。少なくとも私にはそう感じられ、やっぱり勉強のできる人間の方が人生有利だなあ、なんて思っていた。
短大は毎日毎日講師や職員に世話を焼かれ続け、周りはメイクや男の話しかせず、内容も薄く、言葉も伝わらず、つまらないなあと思っていた。
やっぱり大学に行こう、と決めたのはおそらく秋頃だった。
進路
高校最後の公式試合が終わって、進路も決まっているはずだった。
私の所属していたクラブからは例年M大学に進学する子が数名いて、幸いM大学は家から10分程度で、環境とか色々加味してもちょうどいいしやっぱりそこがいいよなあと思っていた。
私ともう1人の同い年の子とでMに進学するつもりで推薦の願書を出した。
ちなみに両親は国立のG大学を推してきたが、知り合いもたくさんいる学校に私は行きたくて聞く耳を持たなかった。
でも、なぜか、スポーツ推薦の合否をwebで照会したら、私たちのナンバーは載っていなかった。
焦った。
後になって知ったが、願書を出す前から受からないことは決まっていたらしい。
監督同士の齟齬というか、上の代の振る舞いというか、色々と絡み合った要素があったらしいが、そんなことはどうでもいいくらいに、たくさんのことを考えなくてはならなくなった。
当時流行していたSNSでも小学校や中学校の同級生が進路を決めたり受験について考えていて、当然他の体操クラブの同級生たちもどこの大学で体操を続けるかなんかをほとんど決めていて、とてもとても置いてけぼりをくらった感じがした。
通信制の高校に進学する際に、クラブの監督は大学進学を保証すると言っていたので、責任を感じたのか体育大学や地方の大学を紹介してくれ、手配してくれたが、その頃にはもう色んなことがどうでもよくなっていた。
体育大学に進学して何をしたいの?地方のFランで何を学ぶの?たくさんの同級生は受験勉強をして頑張ってやりたいことのできる大学に進学するのに、って。
クラブの細々とした行事をこなしながら、勉強を始めてみたり、自力で今から入れる学校を探してみたり。
結局高校3年間何の勉強もしなかったというツケは大きかったらしく、行きたいと思える大学には受からなかった。
少し勉強をみてくれてた人たちには、浪人すれば私立文系くらいならだいたいどこも受かるポテンシャルはあると思うよって言われても、周りで浪人するという話を聞いたことがなかった私は、どうも浪人の二文字にリアリティを感じられず、ほんとうに誰でも入学できるような短期大学の面接を受けた。
そしてそこに受かったと同時に勢いで体操クラブを辞めた。
もうやれないと思ったし、疑問も感じたし、違和感も不信感も抱いていたから。
17歳
高1の冬で自分の限界値が見えた気がしてほぼバーンアウトしていた私。
それでも。体操をしたくないと思えど他にすることもなかった。他に友達もいなかった。だからほとんど仕方がなく、あと習慣で体育館には毎日足を運んだ。
高2もそんな調子で終わりを告げた。毎日適当な練習をし、試合では当然のように悪い結果がついてきて。自業自得でも、つらいなあと思っていた。
高2に上がる頃、小学生から一緒に練習してきて、一番気心の知れた仲間が体操を辞めた。思えば私も彼女もバーンアウトしていたし、仕方の無いことだった気もする。それでも励ましあって馬鹿みたいに笑って喧嘩して、見習って見習われて、みたいなのがなくなって、悲しかった。
しかも追い討ちをかけるように、その冬にはもう1人の古くからの仲間もクラブを去った。その子は他のクラブで体操を続けたが、やっぱりとっても寂しかった。私も当時のあのクラブの方針には疑問を抱いていたが、逃げたり他を選びとったり、自分でアクションを起こす勇気もパワーもなかった。完全に惰性だった。
高3になる直前、なぜだか身体がとてもよく動くような気がした。それまでなんとなくできなさそうで倦厭していた技がいくつもポンポンとできた。この調子なら。この気持ちと身体が夏まで持ってくれれば。毎日願った。
でもその願いも虚しく、4月に入って数日で身体が思うように動かない気がし、しまいには少し大きめの怪我をした。
右膝の半月板を損傷した。
その日はクラブの選手全員で叱られていて、監督も他の先生もみんな、練習をみてくれない日だった。
それでも自分でできる技をいつもと変わらず練習していたつもりだった。それでも気が緩んでいたのか、怪我をした。私の後にも2人、軽めの怪我をする子が続いて出た。
あーあ、と思った。痛いとか怒られるとか、そんな思いももちろんあったけれど。
試合出られないかなあ、練習したくなくなってるのにどうしてリハビリしてるんだろう、辞めたいって思ってたのにみんなが上手になるのはやっぱり嫌だなあ、でももう私はこれ以上無理だよ、とか。そんな気持ちをたくさん持っていた。
うちのクラブのコネというかそうパワーみたいなので国の機関でリハビリさせてもらえることになって、テレビで見る有名なアスリートと一緒にリハビリをした。
そのときはやっぱり、私もみんなみたいにキラキラしたいな、楽しく苦しく辛く頑張って結果がついてきて、気持ちいいだろうな、って。こんなにいっぱいかっこよく輝いてる人が周りにいるんだから、私もそうなれるはずって思ったり、なのにキラキラしてない私がとってもダメに思えたりして。
その年のインターハイは怪我が治りきっていなかったので補欠に回された。会場までは連れていってもらえるのに試合には出られなかった。プレッシャーもないし楽でいいじゃんとかって思ったりしたけど、どこかで悔しくて、腐ってた自分が憎くて、平然と試合してるみんなが羨ましかった。会場でほかのクラブの子と会っても、同じ土俵じゃない気がして、しんどかった。
それでも本気で頑張る気にはなれなかったみたい。もう無理だって気持ちの方が大きかったのかな。
今までずっと私たちについてくれていた先生が、私たちを担当しなくなった。私たち、と言ってもその頃には2人だけになってしまっていたが。腐れ縁のRと私だけ。Rとは喧嘩するし、新たに私たちにつく先生は何もわかってないしで、不安でイライラして、そのころには過食嘔吐が常態化していた。
夏の全日本Jrもそんな気分のまま臨んだので当たり前に失敗だらけだった。みじめだった。観ないで、って、過去のどの試合よりも強く思った。
でも、それが私の最後の公式試合になった。
寄り道エントリ
小学校に上がるかどうかの頃に親の喧嘩の仲介をしようとしたら「あんたのことで喧嘩してんねん!」と言われたことがありますか。
小学校二年生の頃に酔っ払った父親に早稲アカの教材を破かれたことがありますか。何が起きているかわからず、ただただ「ごめんなさいきちんと勉強します」って心の中で叫びながら泣いたことがありますか。
大学四年生の夏に少し遅く家に帰ったら父親に往復ビンタされたことがありますか。
親の依存の対象になってしんどくてどうしようもなくて、何度も何度も死のうとしたことがありますか。
閉鎖病棟に二ヶ月入れられたことがありますか。医療保護入院とか措置入院とか、ご存知ですか。三重にロックされた部屋に隔離されたことがありますか。
その程度の経験もないなら、今の私に口出ししないでください。
お願いします。
高校〜
D高校に進学した。
入試も面接も何も無かった。
高校受験をする子が周りにほとんどいなかったので、仕組みがどうなっているのかよく知らない。
D高校には週4日通うコースと週1日だけのコースの二つがあった。私たちが進学したのは後者のコースだった。
学校に行かない日はほぼ毎日、午前と夕方の2回、練習があった。
一年生の夏までは自分自身の気分も盛り上がっていたし、北京オリンピックの前年ということで周囲の士気も高まっていたので、とても集中して日々の練習に向かっていた気がする。
実際、その年には新しい技もたくさん覚え、試合でも成功した。いい成績を残して、全日本選手権にも出場した。
でも、それだけのことだ。
私の周りには出場できる年齢になったら引退するまで毎年全日本くらいは出る子がたくさんいたし、優勝だとか連覇だとか、そんなことも普通で、オリンピックに出られるか、そこでどんな成績を残すか、なんかを考えている子が何人もいた。
だから、やっぱり、私は落ちこぼれなんだと思っていた。
今でもそうは思うし、もっと真面目にがんばれば良かったとも思うが、どんなに熱中しても思うような結果がついてこなければ今よりもっと壊れた私になっていたかもしれない、とも思う。それにもし満足のいく結果が出せても、バーンアウトとか色々な問題が待ち受けていたであろうし、そこに関してはまあ仕方がないのかな、と今は落とし所を見つけたつもりである。
その頃の私は、夜に眠れない日が続いていた。
友人たちには「一度無理矢理にでも早起きしたら夜は眠れるようになるよ」なんて言われたが、そんなことはなかった。3時まで眠れない日も少なくはなかった。
原因なんてわからないけれど、漠然と将来が不安でたまらなかったのはとてもよく覚えてる。
15歳
中学時代は、8時前に家を出て自転車で学校に向かい、7限目まで授業を受け、それからまた体操クラブに自転車で向かって20時過ぎまで練習をする、という生活を送っていた。土曜日も午前中と夕方の二度の練習があったし、日曜日もお昼に4時間の練習をしていたので、家にいる時間が極端に少なかったと思う。
なのでその頃は両親が壊れていることをさほど気にしなかった上に、かえりみたりどうにかしようとする気力もなかった。
中学3年生にもなると、同級生たちはオシャレやブランド物に興味を持ち出した。
夏休みに髪を染めたり、縮毛矯正をしたり。VUITTONのお財布を持っていたり。
私も例に漏れず、中3の終わりにはハイブランドの革製品なんかを欲しがるようになっていた。
たまたま学校で受けさせられた英検準二級に受かったのと、誕生日祝いと、中学卒業とを併せてでいいからBVLGARIのお財布が欲しいと親にせがんだ。
初めは「いらんやろ」と言うだけの母親だったが、気がついたらわたしの欲しがった型の財布を父親と一緒に買ってきていた。
両親のその対応というか反応というかが、普通なのかそうでないのか、私にはわからない。
中高生にブランド物は早いかそうでもないかも、ねだられたら買ってしまうのが悪いのかそうでもないのかも。
謝恩会や卒業式、そういった類のものには何の感慨もなかった。しいて言うなれば、この茶番からようやく解放される、と思っていた。
解放なんてされないのにね。
中学からの進路とか
中3の夏の試合でボロボロに失敗し、悔しかったけれど自信がなかったからこんな結果でも当然だよな、と思っていて。
その頃にはもう私にオリンピックなんて無理なんだと気がついたというか思い込んでいて。
それくらいの頃に、クラブの主力の子たちは学校に行かずに練習しだした。クラブから学校に、特別出席という通常は試合などのときにされる対応をとってくれ、と申し入れ、週に二度程しか学校に通わなくても卒業できるようになっていた。
ひとつ下のKは中2で既に全日本のタイトルをとっていて、でも学校には馴染めていなかったので、「ここの高校行くくらいなら練習してたい」と言い出し、Kのひとつ上の私たちの代に開校する通信制高校Dへ進学しようという話が持ち上がった。
初めは主力の2人だけにその高校Dへの進学お誘いがあったが、しばらくすると私ともう1人の2軍メンバーにも声が掛かった。
少しの不安はありつつも、やっぱり声を掛けてもらえたのは嬉しかったし、私もあの学校には飽き飽きしていたので、D高校に進学することをすぐに決めた。このままじゃ自分で自分に言い訳してどんどん頑張らなくなる、とも思っていたし、学校行かずに練習するっていうの、かっこいいんじゃない?とかも考えていた。
もちろん親は反対したが、なんだかんだ私に甘く、駄々をこねていたら最終的には許された。親は「勉強は多少大人になってからもできる、でも体操をできる年齢は今しかない」と自分自身に言い聞かせていた。確かにそう。
担任にもよく考えろ、と言われた。成績がトップレベルなのに体操だけにしてしまうのは勿体ない、というような主旨で引き留められたが、もう聞く耳を持たない状態だったので何の意味もなかった。その先生には「あなたは頑固すぎます」とも言われた。正解です。
この決断のことは、後にめちゃくちゃ後悔したりもしたが、今ではあれで良かったと思えている。
あの時そのまま内部進学していたら、高校から来た子と馴れ合って頑張れなくなっていた、もしくは中学同様馴染めずに毎日イライラしていたと思う。そしてそれを理由に体操を頑張れないと言い出し、D高校に進学してたら...なんて未練と言い訳ばかりになっていたと思う。だから、諦めたり自分の才能に見切りをつけるために必要な期間だったんだな、と納得している。たぶん。