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勉強

正式に短大を自主退学して、講師や職員には惜しまれて、でもすっきりしたのが年始頃。

 

翌年からは予備校に通おうと思った。

周りも勉強をする環境にいれば自然と頑張れる気がしたし、何より何も考えずただただ勉強をすればいい、言われたことだけ頑張ればいい、という受動的な時間が欲しかった。

 

大手の予備校に通うことに決めた。

ほぼみんな年下だし、なんだか友達になりたいと強く思うような人はいないように感じられて、結局去年までに出来た友達とよく遊んでいた。

それなりに勉強はしていたと思うし、模試を受けても着実に偏差値は上がっていた(世界史というものをほぼ初めて学び始めてすぐの4月の模試では偏差値28という数字を叩き出したから、そこからは上がることしかできない笑)。

 

一つ前の記事で述べた、育ちもよく勉強もできる男の子とやはり特に親しくなり、付き合うことになったのが夏の始まりだった。

周りの仲間もみんなで仲が良くて、一緒に河原で水鉄砲や水風船をしたり、楽しい時間も過ごした。

 

それでも時折、特に家にいると、つらくなった。

予備校の授業が終わり、自習室で勉強をしていたり、コンビニで飲み物を買ったりして過ごす夕方、ほぼ毎日親からの着信は絶えなかった。まだ18時頃だというのに。

 

思えばその時期から母親の私への依存は強まっていた気がする。

単に私がそう自覚したのが当時だというだけの話かもしれないが。

「あなたがはやく帰ってこないと私はお父さんに殴られるの」

そんなこと知るかよと思う一方、暴れる父はやはり嫌だったのでどうにか止められないかなと考え、早めに家に帰ったり。

そうせずに遅め(といっても21時過ぎくらい)に帰ると母親から責められたり、どこで誰と何をしていたのかと詰問されたり。

 

やっぱり、なかなかキツかったんだろうな、と、思う。

 

 

 

 

 

 

 

今日はここまで。

よく書けました。がんばりました。

どんどん表現して解放しないと、と思ってもやっぱり気は重い。

 

広がる交流

18歳の秋には短大を辞めようと決めていた気がする。

他の大学に入り直すと決めたものの、受験勉強の仕方がわからず手探りな上に仲間もおらず、モチベーションも持続しなかった。

それでも短大生を続ける気はなかったし、だらだらと生きていた。

 

K県でスーパーキッズに通っていた頃の同級生と再開し、少し変わった仮面浪人をしていると聞き、親近感を覚えたので頻繁に遊ぶようになった。

当時流行っていたSNSではその子の中高時代の友人とたくさん交流した。

そのうちの1人と特に仲が良くなり、冬頃にはよくファミレスでお話をし、私の中の「やっぱり賢い人たちに囲まれていたい。とりあえず偏差値の高い大学に行きたい」という気持ちは更に大きくなっていった。

 

 

言い訳

 

このはてブは自分のカルテ的な意味合いもあるのだから、はやくきちんと書かなくちゃ、と毎日思ってはいる。

思ってはいるのだが、過去のことを思い出すとパニックになったり、当時と同じ気持ちが蘇ってきてしまったり、フラッシュバックとかなんかそういうのがほんとに全部こわくて、最近とっても落ち着いてくれているから、だからこそ余計に「今また落ちたくない」とか、そういうことばかり考えてしまって、思い出して書くことを避けてしまっている。

 

でもきちんと向き合わなくてはならないのだ。

週二ペースの更新を目標に……。

辞める辞める辞める

体操を辞めてすぐに、家から二時間近くかかる田舎で体操を教え始めた。

でも設備は整っていないわ教える側は未熟だわ知識はないわで、すぐに嫌になって辞めた。

 実際のところ、子どもとの接し方がまったくわからなかったというのも辞める理由のひとつではあった。

 

短大に入ってからは友達の紹介で恵比寿にある飲食店でアルバイトをした。

隠れ家的なお店で、著名人も定期的に見かけた。

いつも早めに上がらせてもらい、まかないまで希望通りに出してもらっていた。その上、そんなに遅い時間でもないのに父親は頻頻に車で迎えに来た。

 

在学中、省庁へのインターンシップをさせてもらう機会があった。

働くということがまったくわかっていなかったし、自分で希望したというより短大がゴリゴリに推してきて、なんとなく応募したらなんとなく通っただけだったので、大した意気込みもなく、二週間霞ヶ関に通った。

コンプレックスだらけだった私にとって、そこはとても刺激に満ちていた。

超有名大学の学生が9割で、みなしっかりと自分自身を確立しているように見えた。

夜に何人かでご飯を食べに行くと、私と似たようなことを考えている人がいたりして安堵する一方、どうしてこんな風に話の通じる人たちのいる大学に私はいないのか、そんな傲慢な思いで私はいっぱいになった。

 

それが、おそらく、自主退学する一番のきっかけになったのだろうと、今では思う。

限界

18歳で限界を感じた。

ずっとずっと続けてきて、食事をとるのと同じくらい当たり前にあった体操を辞めた。親より一緒にいた仲間たちと離れた。家より長くいた体育館にも足を運ばなくなった。

もうできないと思ったし、行きたくない学校に進学してまでやる意味がわからなかったし、続けてもいいことなんて一つもないと思っていた。

私が行くつもりだった大学の体操部に私たちの代わりに入った子たちは体操もさほど上手じゃないし勉強も私よりできないし、とてもとてもとてもとても嫌な気持ちになった。

どうして?どうして?どうして?

渋々通うことにした短大も、誰でも入れるような所謂Fランだったので、やっぱりつまらなかった。

その頃小学生の頃に塾が同じだった子に再開した。

ずっと勉強をきちんとやり続け、超有名私立中高に受かった彼は賢かったし話していて楽だったし楽しかった。周りの友人たちとも何人か知り合ったが、概して面白く優しく、やっぱり賢かった。少なくとも私にはそう感じられ、やっぱり勉強のできる人間の方が人生有利だなあ、なんて思っていた。

短大は毎日毎日講師や職員に世話を焼かれ続け、周りはメイクや男の話しかせず、内容も薄く、言葉も伝わらず、つまらないなあと思っていた。

やっぱり大学に行こう、と決めたのはおそらく秋頃だった。

進路

 

高校最後の公式試合が終わって、進路も決まっているはずだった。

私の所属していたクラブからは例年M大学に進学する子が数名いて、幸いM大学は家から10分程度で、環境とか色々加味してもちょうどいいしやっぱりそこがいいよなあと思っていた。

私ともう1人の同い年の子とでMに進学するつもりで推薦の願書を出した。

ちなみに両親は国立のG大学を推してきたが、知り合いもたくさんいる学校に私は行きたくて聞く耳を持たなかった。

 

でも、なぜか、スポーツ推薦の合否をwebで照会したら、私たちのナンバーは載っていなかった。

焦った。

後になって知ったが、願書を出す前から受からないことは決まっていたらしい。

監督同士の齟齬というか、上の代の振る舞いというか、色々と絡み合った要素があったらしいが、そんなことはどうでもいいくらいに、たくさんのことを考えなくてはならなくなった。

当時流行していたSNSでも小学校や中学校の同級生が進路を決めたり受験について考えていて、当然他の体操クラブの同級生たちもどこの大学で体操を続けるかなんかをほとんど決めていて、とてもとても置いてけぼりをくらった感じがした。

 

通信制の高校に進学する際に、クラブの監督は大学進学を保証すると言っていたので、責任を感じたのか体育大学や地方の大学を紹介してくれ、手配してくれたが、その頃にはもう色んなことがどうでもよくなっていた。

体育大学に進学して何をしたいの?地方のFランで何を学ぶの?たくさんの同級生は受験勉強をして頑張ってやりたいことのできる大学に進学するのに、って。

 

クラブの細々とした行事をこなしながら、勉強を始めてみたり、自力で今から入れる学校を探してみたり。

結局高校3年間何の勉強もしなかったというツケは大きかったらしく、行きたいと思える大学には受からなかった。

少し勉強をみてくれてた人たちには、浪人すれば私立文系くらいならだいたいどこも受かるポテンシャルはあると思うよって言われても、周りで浪人するという話を聞いたことがなかった私は、どうも浪人の二文字にリアリティを感じられず、ほんとうに誰でも入学できるような短期大学の面接を受けた。

 

そしてそこに受かったと同時に勢いで体操クラブを辞めた。

もうやれないと思ったし、疑問も感じたし、違和感も不信感も抱いていたから。

 

 

 

17歳

高1の冬で自分の限界値が見えた気がしてほぼバーンアウトしていた私。

それでも。体操をしたくないと思えど他にすることもなかった。他に友達もいなかった。だからほとんど仕方がなく、あと習慣で体育館には毎日足を運んだ。

高2もそんな調子で終わりを告げた。毎日適当な練習をし、試合では当然のように悪い結果がついてきて。自業自得でも、つらいなあと思っていた。

高2に上がる頃、小学生から一緒に練習してきて、一番気心の知れた仲間が体操を辞めた。思えば私も彼女もバーンアウトしていたし、仕方の無いことだった気もする。それでも励ましあって馬鹿みたいに笑って喧嘩して、見習って見習われて、みたいなのがなくなって、悲しかった。

しかも追い討ちをかけるように、その冬にはもう1人の古くからの仲間もクラブを去った。その子は他のクラブで体操を続けたが、やっぱりとっても寂しかった。私も当時のあのクラブの方針には疑問を抱いていたが、逃げたり他を選びとったり、自分でアクションを起こす勇気もパワーもなかった。完全に惰性だった。

 

 

高3になる直前、なぜだか身体がとてもよく動くような気がした。それまでなんとなくできなさそうで倦厭していた技がいくつもポンポンとできた。この調子なら。この気持ちと身体が夏まで持ってくれれば。毎日願った。

でもその願いも虚しく、4月に入って数日で身体が思うように動かない気がし、しまいには少し大きめの怪我をした。

右膝の半月板を損傷した。

その日はクラブの選手全員で叱られていて、監督も他の先生もみんな、練習をみてくれない日だった。

それでも自分でできる技をいつもと変わらず練習していたつもりだった。それでも気が緩んでいたのか、怪我をした。私の後にも2人、軽めの怪我をする子が続いて出た。

 

あーあ、と思った。痛いとか怒られるとか、そんな思いももちろんあったけれど。

試合出られないかなあ、練習したくなくなってるのにどうしてリハビリしてるんだろう、辞めたいって思ってたのにみんなが上手になるのはやっぱり嫌だなあ、でももう私はこれ以上無理だよ、とか。そんな気持ちをたくさん持っていた。

 

うちのクラブのコネというかそうパワーみたいなので国の機関でリハビリさせてもらえることになって、テレビで見る有名なアスリートと一緒にリハビリをした。

そのときはやっぱり、私もみんなみたいにキラキラしたいな、楽しく苦しく辛く頑張って結果がついてきて、気持ちいいだろうな、って。こんなにいっぱいかっこよく輝いてる人が周りにいるんだから、私もそうなれるはずって思ったり、なのにキラキラしてない私がとってもダメに思えたりして。

 

その年のインターハイは怪我が治りきっていなかったので補欠に回された。会場までは連れていってもらえるのに試合には出られなかった。プレッシャーもないし楽でいいじゃんとかって思ったりしたけど、どこかで悔しくて、腐ってた自分が憎くて、平然と試合してるみんなが羨ましかった。会場でほかのクラブの子と会っても、同じ土俵じゃない気がして、しんどかった。

 

それでも本気で頑張る気にはなれなかったみたい。もう無理だって気持ちの方が大きかったのかな。

 

今までずっと私たちについてくれていた先生が、私たちを担当しなくなった。私たち、と言ってもその頃には2人だけになってしまっていたが。腐れ縁のRと私だけ。Rとは喧嘩するし、新たに私たちにつく先生は何もわかってないしで、不安でイライラして、そのころには過食嘔吐が常態化していた。

夏の全日本Jrもそんな気分のまま臨んだので当たり前に失敗だらけだった。みじめだった。観ないで、って、過去のどの試合よりも強く思った。

でも、それが私の最後の公式試合になった。