受験〜入院
受験勉強もそろそろ追い込みだという頃、初めて自分の精神は限界なのかもって思った。
どうにか誰かに助けて欲しくて、予備校のカウンセリングを受けた。
何を話したか、何を聞かれたか等はほとんど覚えていないが、「確かにあなたはアダルトチルドレンだと思うわ」と言われ、近くの大学病院への紹介状を書いてもらったことは覚えている。
年明けになってやっと病院へ行くと、入院が必要だと言われた。ひどいうつ状態だと。
死ななきゃいけない感覚や、それを持った自分がずっと私の核にあったので、その状態が私にとっては普通だったし、馴染み深いものだった。なので入院が必要と言われてもまったく理解できなかったし、受験できなくなってまた親からの独立が遠くなるのもすごく嫌で、とりあえず服薬と通院だけにしてもらった。
結果、センター試験の直後に飛び降りでの自殺企図をしているところを通報され、医療保護入院になった。
入院は一ヶ月弱でおわった。
毎日毎日しんどかった。また親の支配下にい続けることになるのか、とも思ったし、結局どれだけ家がしんどいか等も主治医にさえ言えず、ただ少し休養し、他にも普通に見える人でも入院してるんだなあと知っただけの冬だった。
20歳になる誕生日も病院の中で、親から祝われて、周りの患者にも「頻繁にお見舞い来てくれていいね」なんて言われ、ほんとうにしんどかった。
でも、親の何がしんどいのかわからないのが一番しんどかったんだな、と今では思う。
退院した頃には主要な大学の入試は終わっていて、センターで受かっていた大学には行きたくなかったけれど、他に成す術もないし気力もなかったのでその大学に進学することになった。
書いても意味がないとか色々考えたり面倒になったりここの存在を忘れたり忘れたフリをしていたらこんなに間が空いてしまった。
やっぱり書いた方がいいね。
受験勉強
受験勉強というものが初めてて、楽しかったり大変だったり、やっぱりちょっと嬉しかった。
一所懸命になれるものが欲しかったから。
でも、秋から冬頃になると、調子が悪くなった。
付き合いだした男の子の友達と親しくなっていたが、特にその中の1人のとある女の子と仲良くなった。
その子はいわゆる境界性人格障害と診断されるような子で、でも一見とてもしっかりしていたので、私は甘え、結局ずぶずぶと共依存のような関係性になっていった。
家にいるのが嫌でその子の実家にお邪魔したりもした。
勉強は嫌じゃなかったけれど、とにかく親から逃げたかった。
気がついたら自分自身に刃物をむけるようになっていたし、飛び降りたいとも本気で思うようになっていた。
親がおかしいとはまだそこまで気がついておらず、不安でたまらない気持ちだけを自覚していた。
百貨店の屋上でフェンスを越えたりしはじめたのもこの頃。
久々にちゃんと更新、よく書けました
明日からオーストラリアに行ってきます
寄り道エントリ
私はいつまで自分の意思で本を読めて自分の意思で文を書けるかわからないんだよ
そんなことはまあある種誰でもそうと言ってしまえばそうなのだけれども
私も母親のように統合失調症になるんだろうなって考えがどうしても拭えぬくて
母親の好んでいたことを自分も好んでいるとかそういうことに気がつくと、それが全て悪いものに思えて
母親と同じものを選択する自分が気持ち悪くてたまらなくなる。
同じように歳を重ねるのか、と。
最近は人と会うと饒舌さが異常だと指摘されて
自分でも過活動だなって自覚してて
軽躁なのかなって思ったりしてた
一方でやっぱり人を操作したがってる自分がいたり
何か大きな病気なんじゃないかという考えも頭から離れなかったり
ボーダーみたいだし鬱の心気妄想みたいだし
あとは子どもの頃からあるこだわりで、全てを左右平等にしないと気が済まなくて、歩き始めの足だとか、左腕を5回掻いたから右腕も掻かなくちゃだとか、そういうものがどうしても未だになくならなくて
ADHDみたいだよなあって思ったり
なんか生きづらいよね
あんまり自分は病気だとか定義しない方がいいよって入院してたときにおじいちゃん看護師から言われたけど
どう考えたってみんなと違うなあって思っちゃう
それは小学校に上がるよりもずっと前からで
みんなと違うかもしれない、私はおかしいのかもしれない、ってずっと思ってたから
だから小1の前から塾に通いたいと言い出したし、習い事も頑張った。
みんなより全部ちゃんと出来るって実感が欲しかった。
でも、勉強が出来るようになっても、考えは何も変わらなかったんだ。
悲しいね
今はほとんどなくなったというか気にせずにいられるようになったんだけど、小学生の頃はいつも、前から歩いてくる人は全員ナイフか銃を持っていて、いつ殺されるかわからないって本気で構えてた。
小5くらいの頃が色々とひどくて、みんなが自分の悪口を言っている気がしていた。
わからないんだ、それが妄想だったのかも幻聴だったのかも、ある程度はみんなにあるものなのかも。
でも、私が今でもつらくなって苦しくなって1人で泣いてるのは、ほんとうなんだ。
お母さん、ちゃんと病院に行ってよ。
お父さん、お母さんを病院に連れて行ってよ。タバコを控えてお酒は辞めてよ。
ちゃんと、健康になってよ。
そうならない限り、私はずっと苦しいんだと思うよ。
内面化どころか内在化しちゃってるんだもん。
どんな本を読んでどれだけ知識をつけてどれだけ分かった気になっても、自分のことはコントロールできないよ。
つらいのとかおかしい状態の自分に慣れすぎたみたい。そうじゃない状態は居心地が悪い気がして。そんな自分は自分じゃないみたいに思えてしまって。
調子の悪いのがアイデンティティみたくなってる。
それじゃあだめですか。
それでも生きてていいよ、って、誰かに言われたいな
勉強
正式に短大を自主退学して、講師や職員には惜しまれて、でもすっきりしたのが年始頃。
翌年からは予備校に通おうと思った。
周りも勉強をする環境にいれば自然と頑張れる気がしたし、何より何も考えずただただ勉強をすればいい、言われたことだけ頑張ればいい、という受動的な時間が欲しかった。
大手の予備校に通うことに決めた。
ほぼみんな年下だし、なんだか友達になりたいと強く思うような人はいないように感じられて、結局去年までに出来た友達とよく遊んでいた。
それなりに勉強はしていたと思うし、模試を受けても着実に偏差値は上がっていた(世界史というものをほぼ初めて学び始めてすぐの4月の模試では偏差値28という数字を叩き出したから、そこからは上がることしかできない笑)。
一つ前の記事で述べた、育ちもよく勉強もできる男の子とやはり特に親しくなり、付き合うことになったのが夏の始まりだった。
周りの仲間もみんなで仲が良くて、一緒に河原で水鉄砲や水風船をしたり、楽しい時間も過ごした。
それでも時折、特に家にいると、つらくなった。
予備校の授業が終わり、自習室で勉強をしていたり、コンビニで飲み物を買ったりして過ごす夕方、ほぼ毎日親からの着信は絶えなかった。まだ18時頃だというのに。
思えばその時期から母親の私への依存は強まっていた気がする。
単に私がそう自覚したのが当時だというだけの話かもしれないが。
「あなたがはやく帰ってこないと私はお父さんに殴られるの」
そんなこと知るかよと思う一方、暴れる父はやはり嫌だったのでどうにか止められないかなと考え、早めに家に帰ったり。
そうせずに遅め(といっても21時過ぎくらい)に帰ると母親から責められたり、どこで誰と何をしていたのかと詰問されたり。
やっぱり、なかなかキツかったんだろうな、と、思う。
今日はここまで。
よく書けました。がんばりました。
どんどん表現して解放しないと、と思ってもやっぱり気は重い。
広がる交流
18歳の秋には短大を辞めようと決めていた気がする。
他の大学に入り直すと決めたものの、受験勉強の仕方がわからず手探りな上に仲間もおらず、モチベーションも持続しなかった。
それでも短大生を続ける気はなかったし、だらだらと生きていた。
K県でスーパーキッズに通っていた頃の同級生と再開し、少し変わった仮面浪人をしていると聞き、親近感を覚えたので頻繁に遊ぶようになった。
当時流行っていたSNSではその子の中高時代の友人とたくさん交流した。
そのうちの1人と特に仲が良くなり、冬頃にはよくファミレスでお話をし、私の中の「やっぱり賢い人たちに囲まれていたい。とりあえず偏差値の高い大学に行きたい」という気持ちは更に大きくなっていった。
辞める辞める辞める
体操を辞めてすぐに、家から二時間近くかかる田舎で体操を教え始めた。
でも設備は整っていないわ教える側は未熟だわ知識はないわで、すぐに嫌になって辞めた。
実際のところ、子どもとの接し方がまったくわからなかったというのも辞める理由のひとつではあった。
短大に入ってからは友達の紹介で恵比寿にある飲食店でアルバイトをした。
隠れ家的なお店で、著名人も定期的に見かけた。
いつも早めに上がらせてもらい、まかないまで希望通りに出してもらっていた。その上、そんなに遅い時間でもないのに父親は頻頻に車で迎えに来た。
在学中、省庁へのインターンシップをさせてもらう機会があった。
働くということがまったくわかっていなかったし、自分で希望したというより短大がゴリゴリに推してきて、なんとなく応募したらなんとなく通っただけだったので、大した意気込みもなく、二週間霞ヶ関に通った。
コンプレックスだらけだった私にとって、そこはとても刺激に満ちていた。
超有名大学の学生が9割で、みなしっかりと自分自身を確立しているように見えた。
夜に何人かでご飯を食べに行くと、私と似たようなことを考えている人がいたりして安堵する一方、どうしてこんな風に話の通じる人たちのいる大学に私はいないのか、そんな傲慢な思いで私はいっぱいになった。
それが、おそらく、自主退学する一番のきっかけになったのだろうと、今では思う。